独り言

ちょっとブログ書くのが楽しすぎて独り言続ける。

私の好みのタイプって饒舌な根暗なんです、楽観的に見えるけど内心渦巻く思考は内省的で、義理堅い人。(未亡人みたいな陰のあるひと!!)
人の機微に敏感だけども毎回器用に立ち回れるほど大人でもなく、時に癇癪を起こして子供っぽい面も見られるけれど、基本的にみんなから頼られる影の立役者。
普通の人だったら歯が浮くようなキザな台詞もお手の物で、人の心を掴む天性のたらし気質。
庶民にとっても親しみやすいチャーミングなキャラクターで、不機嫌な時はともかく一緒にいて飽きないエンターテイナー。
ちゃんと落ち着く時とハメを外すときと分別をわきまえていて、その多才さに嫉妬することもあれど決して憎み切れない、尊敬を集める人間。
ただし本人は頑なにリーダーになることを拒み、周りも無理強いしないから、とことん影に徹する役割を演じている。
人心掌握に長けていて、話術と見た目で相手の警戒心を解いてはするりと心を許してもらえる。
苦手なことは打算なく自分の正直な気持ちを伝えること。
プライドと臆病心がそれを許さない。
捻くれていて物事に慎重になりすぎて遠回りしがち(戦略的なものであれば抜群の指揮をとるんだけど、プライベートになるとその能力は一気に落ちる残念体質)哀愁漂う姿で、「人は変わるものだろ」って呟いてくれたら私はあなたについていきます。
幸薄そうって要素ありそう…でも人間だれしも必ず幸福が約束されているわけではないのだから言い出したらきりがないな…


そんな私の好きな子の彼氏は顔良し頭よしなんだけど器量は微妙。人に優しくできるんだけど恋愛沙汰にはとことん不器用で相手に嫌われてしまうことも多々ある。
とにかく好物件だから敬遠されがち(親しみやすさはあっても自分と釣り合うかどうかで女性陣は気後れしてしまう)
例えばシャアの愛人ナナイは3拍子揃ってる才女。
めったに見ないってくらいの女史じゃないと相手が務まらないという難儀な男。
彼らの武器はストレートで純粋であるということ。
正直であることを躊躇わないから、まっすぐ心に響くような言葉を自然に使う。


そんな感じが私の好み。また何か加わるかもしれない。
あとは相手の呼び方が「あなた」だったら最高。
アムロ、シャアのこと「あなた」って呼ぶの。反則技でしょう

追記
2016/2/2

もともと私が創作者向きでないのも原因の一つなんだろうけれど、タグ(いわゆるカップリング)で作品を判断するよりも作風を重視することが多いから、カップリング中心ではなくて、自分のヒーロー中心に読む。だから好みはあれど、そのカテゴリー外でも喜んで読むし、それどころか、カテゴリー内にあるもの全部が好きになるとは限らないという現実…。
例えばトマトとキュウリを比べたら私はトマト派なのだけど、私の口に合うトマトもあれば、合わないトマトもある、そしてもちろんキュウリが食べたくなるときもあるし、トマトとキュウリを一緒に食べたいときもある。
まぁ目の前に差し出されたら最初に選ぶのはトマトであることは変わりないのだけど、私の中の優先順位なんてこんなもので、少なくともキュウリアレルギーではないんだよなぁ。
アレルギー反応を起こすのって、私の場合は映像作品の方が多いと思う。
具体的なイメージを提示される方が、より情報量が多くなって処理が追いつかなくなる。
食べ物に例えると、そのままじゃなくて、加工品ということになるのかな。
トマトとトマトのゼリーだったら、それぞれのモノによるけど、基本的にトマト単体を先に食べる。
でもトマトゼリーで絶品の味もあるから、本当一概にはいえない。

もし創作者としてやっていくのであれば、このトマト絶品だから、もうこのトマト世界で一番美味いから皆んな食べてくれ!!!そのままトマトを食べる以外は認めん!!って人間になって、たくさんトマト生産するために尽くすことができるんだろうけど、私の場合「トマトという野菜が生み出す可能性が素晴らしい…トマトを知る人々は一体トマトに対してどんな印象を抱いているのだろうか…トマトが生まれた起源は?トマトが向かう進化とは?」みたいなひたすら自己完結する狭い世界で終わってしまう…辛…
トマトが私にもたらしてくれる恩恵に感謝の気持ちを捧げつつ、ひたすらトマト生産者様に飢えを訴えるニート…辛…
しかも私永遠の終わらないトマト求めてて、自分でトマト作ろうとするとトマトのことが気になって一瞬も気が休まらなくて、ついには放ったらかしにして枯らしてしまうという極悪生産人だから…トマトの作り方を世の中の人に知らせる仕事の方が向いてる…トマト好きだけどトマト生産者になれない…
トマト煩い。

オタクって宗教みたいなものじゃん、布教とか宗祖とかって言葉が似合う。
けど、その宗教を信仰しない人を貶すのはどうなのかなってこと…宗教に対する世間一般の見方を知って、肯定的、否定的な意見も両方受け止めた上で信仰をしたいなって…結局信仰からは逃れられないことが多いんだけど(感銘を受けたという事実は変わらないから)、自分と他人の信仰度合いだとか対象の違いだとかも受け入れられるようになろうっていうのが異文化理解ってやつじゃないですか……趣味の範囲で求める基準がおかしいのは分かってる。バッテリーに飢えすぎてこんなことしか考えられなくなっちゃったんだ.


あと、私地雷ってオタク界隈で一番使いたくない言葉なんですよね…だってあれって人を傷つけるためのものじゃん。爆破って何。別にあなたを攻撃するために設置されたものではないし、その作品で嬉しい気持ちになる人もいるのに、その地雷は自分にとって世界にとっての絶対悪って見なしているようですごく悲しい気持ちになる…分かるけど。気持ちはわかります。
私もトマトに塩かけたり砂糖かけたりして出されたら、最初はあんまり良い気持ちしません。そのままかじりつくのが美味しいのに、なんで調味料かけちゃうのかなぁ!?って。でも食わず嫌いは良くないと思って恐る恐る口に運ぶと、案外美味しかったりするんですよね。まぁ自分ではかけないけど。
つまりトマトに塩かける人全員を敵視したくないということ。というか組み合わせによってはとっても美味にもなるわけで、致死量とか本当に身体の拒否反応がない限りは自分にとっての害悪ではないし、そもそも塩かけて食べる人の存在を否定しても良いのか?塩かける人って色眼鏡をかけてしまうとその人の美点を見逃してしまうのではないのか?という勿体無い精神を発揮する。
ある分野においての好みが違ったっていいじゃない。
まぁそもそもオタクに限らず何でも「皆んな良いところがあるのだから仲良くしましょう」なんて聖人でもない限り無理だし、私だって実践しろって言われたら辟易してしまうけれど、できるだけ私が嫌な言葉は自分から回避するにとどめて、自分も使わないように心がけたいというお話でした。

所謂ネット言葉?ってもともと疎いのもあるけれど、基本的に人を傷つける言葉ばかりが溢れていて、あんまり目にしたくない…じゃあネット離れろよって話なんですが。離れたいです。でも現実も生きづらいところがある。
結局インターネットも人が使っているから発展していくわけで、つまり人間完全に人との繋がりを切断するには無人島に生まれるか人類全員滅亡している時代に取り残されるかしかなくて、(本相手にしていても、その本書いたの人間だってことになると、あんまり人と離れているって感じしない…そもそも食料調達とか何やらで、極力接触を避けることができても完璧に縁を切るのは難しいのでは?)お話するの大好きな私は到底そんな状況で生きていくのは考えられない。
考えられない、とか、ありえないって言葉も自分自身に向けるのならともかく、他人に向けるときは気をつけて用いていきたいよなぁ…昔は「なんでそんなこと考えられるの?」って冷たい言い方してたけど、今なら、「どうしてそう考えたんですか?」って聞くかな…あんまり変化ない?日本語難しい…
英語ならwhy do you think so?
で一発なのに…
相手の意見を尊重している態度が伝われば良いな。
言葉は受け取り手次第って尊敬する人から教えてもらったけど、まさにそうだよなぁ。
聞き手の人が、相手を理解したいと肯定的にみなした上で受け取るのと、最初から否定的な目線で受け取るのとでは千差万別。
私はできるだけ前者になりたいなぁ…。
地雷の定義はね、自分のことを消そうとしてくる存在のことを呼ぶって決めたよ

ゾーニングすることと、相手を否定することは全く違うものであると思っている。
どうしても吐き出したくて、私が肯定される世界に逃げこむことは何度もある。
私の悲しみを受け止めてもらって、私の否定を肯定してもらいたい時がある。
でも、それが公共の場で行われてしまっては単なる我儘にすぎないんだろう。
批判は甘んじて受ける。私はまだまだ未熟で欠陥だらけの人間のままなんだろうけど、それでも自分の存在くらい自分で認められなきゃ何も始まらない。
他人と自分と違うことを突きつけられ、さらにある一定集団において自分のみがマイノリティに属していると考え始めてしまうと、自分がそこに馴染まないことを悲しみ、そして他人に対して不必要な怒りを感じて持て余してしまう。
まるでそれが常識であるかのように扱われ、規則にそぐわないものに対する排他的な空気を感じると、あまりの息苦しさに私は何もかも拒絶したくなる。
それはインターネットにおいても、普段の日常生活においても同じことが言える。
とてもつらいと思う。きっと発言した人は私を攻撃する意図なんてちっともなかっただろうに、(仮にあったとしても、正面切って言われない限りは私の自意識過剰なんだと信じていたい。)私は勝手に傷ついて、自分の思考回路も、相手の存在も、何もかもなくなってしまえばいいのにと思ってしまう。
痛みはどうしたら癒されるんだろう。

自分で自分を慰める術を見つけたい。

私が瑞垣に向けるのは私の願望。
愚痴を言うのではなく、自傷行為をするのではなく、逃げるのではなく、自分の内なる動機に目覚めて突き進んでほしい、それは私自身に言えること。

http://www.ted.com/talks/dan_pink_on_motivation?language=ja

http://www.ted.com/talks/susan_cain_the_power_of_introverts?language=ja

http://www.ted.com/talks/io_tillett_wright_fifty_shades_of_gay?language=ja

一年前に見たTEDの内容を私はきちんと理解していなかった。
今書いていることと関連性は特にないのだけれど、やはり時間を経て見返すと、意味の飲み込み方が違う気がする。

受動態にならない動詞(become,lack,meet,have,resemble等)は須く瑞垣を想起させる。だれの意志にも関係ない動作を表す動詞や、相互関係を表す動詞に多い。これは私が彼に対して、自立や他人との関わりというテーマを求めているから。

これは以前の私のツイートから引っ張ってきたもの。
定期的に過去を遡っては自分が何を考えてきたのか確かめ、自分の浅はかさに恥じを感じつつも何とか見直している。

「自分」を生きていく中で新たに付け加えたり削り取ったりしていきたい。

以下は私の今日あった悲しい出来事と、それに伴って私が考えたこと。

以前からオタクは気持ち悪い生き物という世間一般の認識はあっただろうけれど、(Twitterやネットに入り浸っているとつい忘れてしまいがちな事実)
今日の午後留学経験者の先輩から、「留学先では日本語専攻の学生が寄ってくるだろうけど、彼らはアニメ好きのオタクで友達がいないだけ。日本人だから、と親しみを感じてくれるのはいいけれど、向こうはこっちが不安がっているだろうと思っているまではいいとしても、自分達の趣味を押し付けて舐めた態度をとることもあるから、付き合いも大概にしといた方が良いよ」
というアドバイスを受け、オタクを自認する私は大変心苦しい気持ちになったことは言うまでもない…。

オタクが世界中にいるのは知っているけれど、海外に出でもこんな認識なのか、とがっかりしたのはもちろん、そんな世間の認識に対して自分たちの振舞を顧みることなく、オタク同士が互いに敵視している現実が悲しすぎる…

そりゃあ人間すべて受け入れることはできない。私も優しさをないがしろにすることも多々あるけれど、それにしたって人間あまりにも傷つけあってる。悲しい。

私自身こんな隅っこのサイトで何をぶつぶつ何時間もかけて書いているんだろうと情けなくなるけれど、感情に心が振り回されて冷静な判断ができないときは言葉にして整理しなきゃ何も解決しない…。

物語の意義って事実や現象を受け入れるために存在するんじゃないかって自分の論理をここで展開したい。
淡々と告げられる情報だけじゃ、思考力が十分に養われていない私は混乱することしかできない。
だから人が語る物語を求める。
それはアニメでも、漫画でも、小説でも、芸術全般において言えることなんじゃないかな。

無意識に批判ではなく否定を繰り返す自分を諫めていきたい。
相変わらず論理的でない文章構成だから、あとから見直したらまた頭抱えそうだ…



バランスの問題と、今後の課題について適当に書いてます。

ツイッターたのしーとツイッターに居づらいーが定期的に交互に来る。
そもそも自分の周りにいる漫画・アニメ好き友達がネット交流盛んな方ではないから何となく引け目を感じるというのもある。
しかも!彼女らは漫画や絵や小説を書けるのだ!!黙って高クオリティ作品を仕上げる職人!!すげーかっけー!!!
ツイッター離れたら作品書く気力湧くのだろうかと思ったけど全然そうでもない。むしろ意欲喪失した。
たまーにツイッター覗くと、フォローしてる人たちがすげー面白いこと話してる。すごい!!!
なんだか自分がちっぽけに感じる、そんな日々でございます。
あと、なんかTLを見ていると苦しくなっちゃうことがあってね…端的に言うとCP論争だったり解釈だったりです。
色んな人の話が混ぜこぜになって流れて来るTLは利点もあるけど欠点も大きい気がする。
中間の居場所がなくなっちゃう感じ。
中間っていうか…なんていえばいいのかわからない。
例えば私が好きなAというフォロワーはabというカップリングが好きで、またべつの、私が好きなBというフォロワーはbaというカップリングが好きという場合。
私はAさんが語るabというカップリングが好きだし、Bさんが語るbaというカップリングが好き…。
もっというと、好きの度合いから示すと、
ab=ba<Aさん=Bさん、という感じ…
固定にしろリバにしろ何にしろ、フォローしてる人が好き!!が第一にくるんだなぁ…これ、変かな〜…
他にも、abというカップリング内で、CさんとDさんの解釈がそれぞれ違っていても、Cさん、Dさんそれぞれが好きだから私はフォローしてる…

でもそれを字面で見ると、abいいですよね!baいいですよね!abaいいですよね!ってなって、私何が好きなんだよってなりそうでかなしい…

ネットでつぶやき見てるだけでその人のこと好きになるっておかしいだろ!って気もするけど、好きになっちゃうんだよ〜
引かれるの覚悟でいうと、イベントに行くことよりも、フォローしてる人と話す方が楽しい…
そのイベントを、フォローしてる人と一緒に楽しめたら文句なしの最高です。
イベントの種類にもよるけど、参加型イベントは同行者が居てこそ楽しいのかなっていう思いが拭いきれなくて…これはぼっち参加したときのトラウマのせいかな?(^_^;)
なんかファンになっちゃうんだよな〜
この心理状況がおそろしくて、ツイッターあんまり入り浸らない方が良いなと警戒しています…
フォローする人を知るきっかけはジャンルなんだけど、ツイート読めば読むほどおもしろーい!こんな考え方、表現ができるなんてすごいすごい!!ってテンションが上がってしまう。
ああ〜この人好き!!!ってなっちゃうの、こわい…

この前付き合おうって言われてOKした人と別れたんですけど、相手側が結構粘ってらして、好きのパワーってすごいな???って思ったのもある。
まぁこの場合は好きっていうよりも執着だろうけど…

そんなわけで、私はツイッターですごい人発見してストーカーするの、相手にめっちゃ迷惑かけるんじゃ…と思って控えようと努力してます。

それこそお仕事としてツイッターしてたら、新情報を得つつお金を投資するという手段があるけど、ある作品のファンとしての繋がりでお話する相手に投資する手段は、基本的にはない。

応援したいから、リプだったりいいねだったりを送るけど、神に自分の存在を認知されたくないという私の友達(冒頭のネット交流しない派の方々)の気持ちが最近になってようやくわかった…!!

申し訳なさと、好きすぎて苦しい?(地雷を踏んで嫌われるくらいならいっそ私のことを忘れて…?)みたいな気持ちの板挟みになってしまうんだなー、なぞ。
今後も、個人リプライ中心のツイッターの使い方になりそうです…ラインの感覚。
それでも、繋がりを消したく無いから、細々と私におつきあい下さる方々と交流を続けていきたいです。

つらつらと私の最近思ったことを書いてみました。

さいごに!!私のキャラ解釈というか萌えについて!!!
瑞垣俊二の呪いにかかっていたころ(あれは熱狂というより、呪いか病気だった。ネットストーカー犯罪者予備軍になりかけてた)
瑞垣俊二の自伝本が欲しいみたいなことずっと思ってたんですが、それは他のキャラクターにもいえます…

私の好きな子が生まれてから死ぬまでを知りたい…これが私のオタクとしての原動力…

孤独大好きとか言ってたのも、周りの登場人物と私の好きキャラの関係性を言語で固定化すると、まぁいろんな矛盾というか、バリエーションが膨大なものとなって収集つかないので、(そして言語化していくとカテゴリーみたいなものが出てくる)
じゃあいっそのこそ私の好きな子一人だけでいいじゃん!みたいな消去法でもあったのかもしれない…あな恐ろしや。
どう生まれて、どう死ぬのだろう??という人生への関心がある。シチュに拘りはあんまり無いです。
言語化したくないっていうのもあったのかも…あんなに言葉にこだわっていた私がいうのもなんですが。
言語化すると解釈になって好き嫌いが見えやすくなるからかな…
絵が好きっていう友達が、小説と違って絵は解釈に幅があるから良いっていうのが、わかりかけてきました。
私は今でも絵や漫画を見るよりは小説を読むことの方が多いし、そっちの方が好きなんだろな、とは思う。けれど、小説におけるタグに対してとても敏感になってしまったというか、カテゴリー別に分けて欲しく無いなぁなんて思ってしまいました。
登場人物だけで良いよって(笑)
分けて欲しい人もいるから、難しいな(笑)
タグは感想というか、その人個人の解釈としての、別の読物として捉えたいかな。

その人の作品が好きな時、多くの場合その人の解釈もとっても好きなんだけど、玉石混交なツイッターで自分をさらけ出すには、なかなか勇気がいるものです。

バランスに気をつけながら、これからも楽しいツイッターライフを満喫していきたいです。