ハツカネズミと人間

 

 

ジョージ・ミルトンが好きすぎて本気で結婚したい。
彼と、レニー・スモールは二人でカリフォルニアの農場を転々と渡る労働者。ジョージは小柄で機敏、顔が浅黒く、ぬけめのない目をして、目鼻だちも鋭くたくましい。からだのどの部分もきびきびしており、手は小さくて丈夫、腕はしなやか、鼻は細く骨ばっている。
レニーはジョージと正反対の大男で、顔にしまりがなく、大きな薄い目と幅広い目と幅広いなで肩をしている。
レニーは頭が弱くて、そんなレニーのお世話をせっせと焼くジョージ本当に大好き。よーしよし、よくできた。って褒めてくれるの、それにレニーは得意になってにっこりするの、なんて可愛らしい二人なの。
今日はここに寝て、空を見ていてえよ。そうするんが好きなんだ。ジョージがぽつりと呟いてじっと空を眺めているのを隣で見ていたい。
ハツカネズミを拾うのが大好きなレニーから、ネズミを取り上げるジョージの飼い主っぷりがね、見ていて胸がぎゅーってなる。この大バカのこんちきしょう。いつもおれをひでえ目にあわせやがって。罵倒しながらも、レニーにいてほしいって訴えるジョージは目に入れても痛くないくらい可愛い。
おらにはおめえがついてるし、おめえにはおらがついていて、互いに世話をしあうから。そういうわけさってジョージが言い聞かせる話をそらで覚えちゃうレニーは穢れのない赤子。
親方のいうとおり、他人の面倒をこんなによく見る男は見たことないよ。おめえの親類だったら、おれは自分から死んだほうがましだねって、ジョージは意地悪をいうのをやめられない。おれたちゃいっしょに歩いているのよ、というジョージに、へぇー、そういうわけですかって意味深に返すカーリーには腹がたつったらありゃしない。
スリムは初登場時から印象的だった。背が高く、ぬれた長い黒髪の持ち主、王者と名工だけが持つ威厳があって、その態度には重みと底知れぬ落ち着きがある。かれが話を始めると座が静まり返ってしまう。彫りの深いその顔は年齢を表さない。耳は言われたこと以上のことを聞き取り、ゆっくりと話すその言葉には、単なる思慮でなく、思慮以上の深い理解を含んでいる。大きくてすらりとした手は、神殿の踊り子のように動きが優雅。メス犬を飼っていて、茶色と白の斑はレニーに譲られるのだれど、レニーはやっぱり殺してしまう。
ジョージがスリムに身の上話をしているシーンはとても好き。スリムには不思議と心を開かせる力がある。レニーのようなアホウとおまえのような小粒でピリッとした男という二人の表現方法が想像を容易くする。
もともとレニーをなぶってさんざん楽しんだけれど、次第に面白くなくなって、からかうのをやめた経緯が、めったに起こりえない、ほんとうに頭がきれていいやつジョージという男を生み出したんだね。
一人で歩いても楽しくねぇ。長い間にゃ気持ちがひねくれてくる。だが、友だちといっしょに歩きつけると、とても離れられねえもんよ。ジョージのレニーに対する愛情に心打たれる。子どもみたいな悪気のない、ただの力が強いだけの男、レニー。いっぱい面倒をかけさせられるけど、やっぱりどうしたって嫌いになれないんだよね…。
次にクルックス。自尊心の強く、殻に閉じこもる黒人男性。彼の、人間には仲間が必要だ。そばにいる仲間が。という慟哭が頭の中でこだまする。仲間が誰もいねぇと、気が変になっちまう。だれでもかまわねぇ、いっしょにいるならそれでいい。だってなぁ、あまり寂しくなると、病気になっちまうんだよ。ひとりじゃわからねぇんだ。
けれど、最終的に、ジョージは一人で生きていく決意をする。レニーにひどいことをさせるもんか。という言葉は、ジョージがレニーにしてあげることのできる唯一の選択肢を示していた。
レニーはものごとはなんにも覚えていられないのに、ジョージのいうことはのこらず覚えている。レニーに向かって銃を上げても、手が震えてしまうジョージ。彼は、レニーを失うことで自分の夢も壊してしまうことを知っている。厳しい顔をして手を落ち着けて、引き金を引いたジョージ。
せめて、楽に逝けるように。彼の希望の灯を犠牲に、れニーが静かに、まるで眠るかのごとく生命の華を散らせるように。
最後、ジョージの腕をとって飲みに行こうと誘うスリムの二人が連れ立って歩いていく後ろ姿を、わたしは脳内で何度も繰り返し再生してしまうの。
 
ジョージとレニーの関係はすべてこの世の非肉体的な、非性的な(大変使い古され、不適当で、今はほとんど意味を失ってしまった「精神的」という言葉を使ってその意味するものを表すのに役立てよう)感情、関心、そして野望の規範である。 

Burton Rascoe, 'John Steinbeck," Tedlock and Wicker, p.61から引用
レニー(門脇)とジョージ(瑞垣)は言語が違うんだけど、互いに支え合ってる。スリム(海音寺)とジョージは同じ言語で分かり合うことができるの。
ジョージはスリムの中に新たな聞き手を見出すのだけれど、本来彼はレニーなしでは話を続けることができない。彼の悲しみを理解できるのはスリム、だけどその理解は空いてしまった穴を完全に埋めることはない。
ジョージは聴き手の注意を何とか保っている間は現実のように思える夢を作り出す能力がある。
しかし、レニーが死ぬと彼もまた地に落ちてしまう。
聴き手は自分の語る作り話のようにつかの間のものであり、たまたまその環境に捕らえられていたにすぎないことに気づいて、彼は今まで考えていたものよりもっと世俗的な現実に順応しようとするのである。
スタインベック作品論 テツマロ・ハヤシ編 坪井清彦監訳 p120
「コヨーテが遠吠えをし、犬が流れの向こう側からそれに応えて吠えた」という冒頭の章の終わりと異なり、
レニーは「川を横切ってむこうへ」行ってしまった。

瑞垣と門脇が一緒の世界で生きていける道を模索していきたい…;;
クララおばさんがあまりにも佳代さんで私は驚いている。

2016/02/01
追記

ジョージはレニーを殺してしまったことで永遠に彼の面影を引きずるんだろうけれど瑞垣あなたはやり直すことができる。
死って簡単に言えるのは、私がそれに疎いから。完全に切り離された文字上の概念だからいことができるんだと思う。
身近な人の死を体感したことがないから。死んじゃうってどんなことか頭でしかわかっていないから。
確かに死亡事件が自分の周りで起きたことはある。けれどそれは私の内面に深く影響をおよぼすほどのものではなくて、ああ、可哀想、お悔やみ申し上げますって程度。
酷いようだけれど、人間が向けることのできる関心の幅って案外狭い。
マクロすぎる視点だとミクロの見落としをしてしまう。
社会問題を論じる前に、私の近所で起こっている問題に対して私はどんな行動をとれているのかって考えると、なんてちっぽけなことしかできていないんだろうって軽く落ち込む。
それでもやっぱり考えることと行動することを完全に放棄したら元も子もないよね。
最近自分が言葉を発するうえで自由に述べていたつもりがあまりにも枠にとらわれていていることに気づかされる。
守るべき規則と圧迫の区別を自分なりに決めたい。
そういう境界線ってきっととっても曖昧で、全員の意志を統一することなんてできないんだろう。
でも統一できないからこそ発想力がかき立てられて、自分がどんな言葉を使うかによって人格ができるんだって思えば、
この気が遠くなるような膨大な言葉の洪水の中で、自分の道を探していく気力も湧くはず。

追記 
2016/2/7

http://blog.livedoor.jp/potentsu/archives/518985.html

上記のブログを読んで、私はやっぱりこのお話が好きだなと再認識。
孤独を選択するジョージ。
レニーは彼の相棒であり、夢の象徴であり、彼にとっての唯一の聴き手だった。
現実世界に帰るジョージはこの先いったいどんな道を歩むのか。
私は彼の行く末を応援したい。
原作としては、飲みに連れ出したスリムとジョージによるスリジョーが読みたい…
ジョージが信頼するスリムによって身体が暴かれる展開を…