ハツカネズミと人間
Burton Rascoe, 'John Steinbeck," Tedlock and Wicker, p.61から引用
レニー(門脇)とジョージ(瑞垣)は言語が違うんだけど、互いに支え合ってる。スリム(海音寺)とジョージは同じ言語で分かり合うことができるの。
ジョージはスリムの中に新たな聞き手を見出すのだけれど、本来彼はレニーなしでは話を続けることができない。彼の悲しみを理解できるのはスリム、だけどその理解は空いてしまった穴を完全に埋めることはない。
ジョージは聴き手の注意を何とか保っている間は現実のように思える夢を作り出す能力がある。
しかし、レニーが死ぬと彼もまた地に落ちてしまう。
聴き手は自分の語る作り話のようにつかの間のものであり、たまたまその環境に捕らえられていたにすぎないことに気づいて、彼は今まで考えていたものよりもっと世俗的な現実に順応しようとするのである。
スタインベック作品論 テツマロ・ハヤシ編 坪井清彦監訳 p120
「コヨーテが遠吠えをし、犬が流れの向こう側からそれに応えて吠えた」という冒頭の章の終わりと異なり、
レニーは「川を横切ってむこうへ」行ってしまった。
瑞垣と門脇が一緒の世界で生きていける道を模索していきたい…;;
クララおばさんがあまりにも佳代さんで私は驚いている。
2016/02/01
追記
ジョージはレニーを殺してしまったことで永遠に彼の面影を引きずるんだろうけれど瑞垣あなたはやり直すことができる。
死って簡単に言えるのは、私がそれに疎いから。完全に切り離された文字上の概念だからいことができるんだと思う。
身近な人の死を体感したことがないから。死んじゃうってどんなことか頭でしかわかっていないから。
確かに死亡事件が自分の周りで起きたことはある。けれどそれは私の内面に深く影響をおよぼすほどのものではなくて、ああ、可哀想、お悔やみ申し上げますって程度。
酷いようだけれど、人間が向けることのできる関心の幅って案外狭い。
マクロすぎる視点だとミクロの見落としをしてしまう。
社会問題を論じる前に、私の近所で起こっている問題に対して私はどんな行動をとれているのかって考えると、なんてちっぽけなことしかできていないんだろうって軽く落ち込む。
それでもやっぱり考えることと行動することを完全に放棄したら元も子もないよね。
最近自分が言葉を発するうえで自由に述べていたつもりがあまりにも枠にとらわれていていることに気づかされる。
守るべき規則と圧迫の区別を自分なりに決めたい。
そういう境界線ってきっととっても曖昧で、全員の意志を統一することなんてできないんだろう。
でも統一できないからこそ発想力がかき立てられて、自分がどんな言葉を使うかによって人格ができるんだって思えば、
この気が遠くなるような膨大な言葉の洪水の中で、自分の道を探していく気力も湧くはず。
追記
2016/2/7
http://blog.livedoor.jp/potentsu/archives/518985.html
上記のブログを読んで、私はやっぱりこのお話が好きだなと再認識。
孤独を選択するジョージ。
レニーは彼の相棒であり、夢の象徴であり、彼にとっての唯一の聴き手だった。
現実世界に帰るジョージはこの先いったいどんな道を歩むのか。
私は彼の行く末を応援したい。
原作としては、飲みに連れ出したスリムとジョージによるスリジョーが読みたい…
ジョージが信頼するスリムによって身体が暴かれる展開を…